2024春TBS系日曜劇場「アンチヒーロー」。主人公を中心に骨太の人間ドラマが楽しめる作品だった。脚本は「VIVANT」に近しいメンバーでの4人チームというのは見てわかる。
脚本業界での用語的には「アンチヒーロー」は、弱々しかったりしてヒーローとなる資質になるものを欠いている人物のことを指すので、自分としてはひっかからないこともない。
明墨、赤嶺、紫ノ宮の葛藤を読む
大事なのは目先のストーリーを追うことよりも、葛藤の構造がどうなっているかを早く掴むことだ。この後は3人の葛藤をまとめつつ各話の話を書いていくので、ぜひ注目してほしい。葛藤がきちんと描写されているから、情報量の多さが浮くことなく、一本の軸に収束されていくのだ。そして、葛藤がつかめれば、その後を予測できる。
3話
2〜3話は、むしろ赤峰が主人公と言っていいほどそちらの葛藤が描写されていた。
原始的な欲求:正しく生きたい
葛藤:「有罪」の人には「有罪」を、「無罪」の人には「無罪」をきちんと与えたい
事実を見極めたい
><有罪を無罪にする明墨のやり方
視聴者の価値観は赤峰についている。一般的な正義感はこれである。
3話の事実確認は多少難しいのできちんとやっておきたい。結局、清一郎は暴行をした。だって映像がそうだったし、そうでなければ秘書の方をあれほどチラチラ見ることはない。明墨がしたかったことは、父親で政治家の男を有罪に引きずりこむことだった。車載カメラの映像を示唆し、工作をさせた。これがなければ父親が巻き込まれることはなかったのだ。しかし、手柄は検察側に取られた状態となっている。
赤峰に加工した動画を見せたのは、思い込みから特定の人物を犯人だと思い込むことが危険だと自覚させたかったから。ではなぜそうするのか。昔の自分がそれで失敗を犯したからに違いない(→検事時代の強引な自白)。ここから視聴者は明墨の過去を想像できるのだ。
4話
引き続き明墨を探る赤峰から、視聴者に明墨のキャラクターを洞察させる回。
明墨の葛藤も初めて描写された。死刑囚が、「静かに死にたい」という、価値の平静を自分が動かすことになってしまう。これによって視聴者が彼に感情移入するきっかけを作ったことになる。
途中で赤峰が「明墨が警察を狙っているのではないか」と発言した。話の回数が増えてきた中でマンネリ化することを逆手に取り、全体のストーリーを見せることで明瞭化を図った。しかしかえって、この回のラストではこの事実を提示するだけではインパクトを保持できなくなった。
途中のラーメン屋の下りで、この回の被告人は2つの顔を持っているという話をしていたが、これはこの後明墨の2面性を掘っていくフリだと考えられる。
最後の明墨のカットのバックが黄色で、テーマカラーと補色を取ったのは意味があると思う。即ちアンチから、不正を追求する正義への転換。
5話
紫ノ宮の葛藤に急激にフォーカスされた回。
葛藤:父親の正義であることを確認し、親を信じたい
><親の態度、弁護士事務所にいる自分
父と実家で会う1回目の後、家の前に赤嶺が来て、四ノ宮がそれをからかい気味に接するみたいなシーンがある。ここで紫ノ宮は、自己の価値観の均衡を保ちたく通常通り行動しようとしているし、できているということが読める。
で最後には紫ノ宮の父が警察に連行され紫ノ宮が残される。価値観の葛藤に照らし合わせた起結としては、強い―で終わったことになる。そのシーンで紫ノ宮が明らかに動揺していたのは、先ほどのシーンと対比させて見るとより分かる。
1話ごとに明らかになっている事実と、それでどんな葛藤が引っ張れるか考えられて設計されているのはとても好感が持てる。
6話
中盤の伊達原の「瀬古はいい弁護士だから」というセリフと、瀬古自身の「自分の邪気を払うために来てる」というセリフの伏線がいい感じに最後に刺さっている。伏線の良さ。
ここでまとめておこう。話が見えてきたが、ストーリーの葛藤は明墨・赤嶺・紫ノ宮の3人で担っている。(不本意な書き方だろうが)今ここで書いている「アンナチュラル」の中盤の中堂の引っ張りを応用し、中堂に行動力をプラスして赤嶺に探らせれば中堂の側を主人公にできるんじゃね? みたいな形である。主人公の本意を探らせるストーリーは、「ハゲタカ」とか、近年のTBSだと「Get Ready!」等があるが。その辺のミックスになると見た。
7/8話
牧という先に弱い存在を消化させて、その後の伊達原の凶悪さ、展開に繋げるというストーリーは、脚本界では頻出。
1話からの循環したつながりの回収が見られる。赤嶺が再審請求で勝利したのは、葛藤の障害物の弱い自分に打ち勝ったことを意味する。すなわち赤嶺が明墨の過去を探るのはここで終わり、今後は協力しあうという脚本の意思表示である。
そして明墨が糸井死刑囚に訴えるシーンも循環した。1話冒頭の余裕たっぷりな明墨と比較し、彼に訴えてもらわなければ始まらないという必死さを感じさせる。
でさらに、ここで明墨の過去回想に接続するようだ。やはり来たかという感じだ。「アンナチュラル」中堂と同様に回想で強い共感をもたらすのだろう。(考察で明墨がいいやつかすらわかりきってないとかなんとか言っている人がいるが、はっきり言ってあり得ない)。この後は伊達原を価値軸の対象として機能させ、勝てなさそうな雰囲気を出して価値軸の対決をさせるのであろう。ラストは、見えた。
明墨の罪悪感だけでは視聴者の共感を惹きつけ切れるか不安なので、糸井親子の「会いたい」という原始的な欲求をバックに足すことで、強化を図った。そういう意味で中程のシーンはよく機能していた。これも脚本界だと頻出の構図。さらには桃井も同じく。
明墨
原始的な欲求:弁護士として強くなりたい・糸井親子を助けたい
葛藤:弁護士として、引き受けた被告人を「有罪」であったとしても「無罪」にする
><被告人を有罪にしようとする検察官 ・(後半)無力な自分
9/10話
9話の最後で明墨が逮捕された。9話、クライマックス前の盛り上がりとしては十分だろう。
で10話の最初気になったのが、赤嶺の状況説明NA。NAはそもそも嫌われる傾向にあるし、それが赤嶺のというのも必然性に欠ける。会話にしてカットバックとかにできなかったのだろうか。
伊達原のテーゼが1話から反転している点に注目したい。1話は「有罪でも罪を償えば社会で生きていける」今回は「相手を落としてでも自分を守らなければこの世では生きていけない」明墨の考えを伊達原が認めた形となる。
それに対して明墨は「司法の人間として考え続けることが唯一の正しい道だ」的なことを発言し、新たな価値観を提示する。目を背けるという概念上のものとPCを閉じる伊達原がリンクしている点は綺麗(そして微妙に伊達原を救済)。それが全体を通したテーマとして届きうる。
牧を最後でイメージ的に救済していたが、そこまでする必要あったかな、少し強引に見える気もする。
で最後にそれぞれの葛藤の帰結を回収して終わる。回収さえできれば綺麗に終われる。
紫ノ宮は父親と面会するが、そこでは相互の信頼が読み取れる。信頼/不信という軸に沿ってしっかり回収した。
次に糸井父子を会わせる。このシーンはあるだろうと前から思っていたが。
で、赤嶺の分。ジャンパーの偽証でまだ罪が残る明墨と赤嶺が会話する。赤嶺は有罪の人を救うのが正義なのかという内的葛藤で引っ張っていたので、このシーンでそれに結論を出したわけだ。
ただ演技の問題か脚本の問題か微妙だが、赤嶺の「あなたを無罪にして差し上げます」のセリフへの接続には少々強引すぎる感触も覚えた。
葛藤が読めればストーリーの結末が読める、とはこのことだ。
終わりに
日曜劇場というマス的なエンタメを運営することは、小演劇などに比べてもやはり高い技術力と良心が要求される。脚本も然りだ。今作は、論理と葛藤の軸足がはっきりしているとともに、内容が時代に適合しているという点で良かったのであろう。
視聴者の側も、表面的なストーリーを追うのではなく、脚本の原則を学び本質を掴むことを勧める。それは書く側としての趣味だけでなく、ストーリーを予測できるようになって楽しいし、より相互的で高度なコミュニケーションを支えるはずだから。