3年演劇に役立つシリーズ#2-3
ふらはです。
この記事は「演劇と資本主義」「演劇と空間」の(早すぎる)続編です。それらを用いながら(今回のでなんとなく三位一体になります)、時事ネタとして辛夷の話も挟みます。盛りだくさん。マジでこの文章を大学で採点して欲しいくらい充実している。
↓ぜひお読みください
お待たせしました、福元の身体論です。演劇に関しては最も核心に迫るテーマですね。福元は体育も下手だし演技も下手です。そんなやつの身体論意味あるのか。否、だからこそ語れることもいっぱいある。
はじめに
どうして私たちは演劇を始めたのか?
…モテたかったからです。
正直でよろしい。まあ実際、そういう人間も多いと思われる。僕もどちらかといえばそっちだった。しかし演劇にのめり込むほど、リアルで付き合っている人間はいないのだが…。
身体を運用し演技をする時には、違う役柄を生きる。他者からの目線に晒される、公としての体になる。しかし演劇を始める時のプリミティブな考え(初心忘れるべからずの「初心」)には、私たちの身体意識そのものが埋め込まれているのである。これは複雑な問題である。
今回はそんな私たちが演劇を始めた理由が、この数年で実は消滅してしまっているのかもね、という話をしたい。
身体データ
前回「演劇と空間」では、人間の身体がロボットに置き換えられるかもね、という悲観的な話をした。しかし今回は、これはこれであり得る別ベクトルの話をしていきたい。つまり人間の身体は残る、という仮定である。
そもそも、演技とはよくわからないものだ。自分の動きを即時に観測できず、声もくぐもって聞こえて、それでも修正していかなければならないのである。パラドックスだ。(だいたい)劇場に鏡はなく、映像を見返すのもどこか恥ずかしい。これでできている君たちの方がおかしい。
絵画や文学、音楽制作は、自分が描いたものを何周も見返してブラッシュアップができる。脚本もそうだ。そこは演劇の大きな特性、と言える。
次元を越えるデータ
だが前回少し、MMDの話をした。MMDでは、人間の関節などの動きを細かく3次元で記録することができる。それをキャラクターに流し込むわけだが、ここにおいて身体のデータ化が実現する。
それは、従来の演劇アーカイブ、映像でただ撮るのとは異なる。役者の動きのデータを保存し、デジタル上に空間を再構築して、自由に視点を選べるようにして初めて、演劇の完全なアーカイブ化が達成できると考えている(って岡室教授に言おう)。
(参考)ボカロ紅白「今すぐ輪廻」。MMDとは、こやつのことである
私たちの空間は、しばしば2次元化しており、その境界は曖昧になっている。試しに、紅白とボカロ紅白を見比べてみよう。(紅白の舞台を語るという企画は、ずっとこのブログでやりたかったのだが、時期が悪く実現していなかった。ようやく)。
私たちとNHKホールの間には、テレビというガラスの壁がある。その向こうに渋谷のホールという空間があることは信じられる。しかし舞台後方の大きなディスプレイは2次元で作られ、歌手は2つの2次元の壁に挟まれる。さらに舞台で披露されるのは、tikitokなどの縦型動画に特化した振り付け、ないしYoutube的なけん玉やドミノなどの企画であり、それは2次元を源流にしている。テレビである以上、中継も可能だ。福山雅治は横浜から歌う。
要するに何が2次元で何が3次元か、というのは、現代もうよくわからないのである。3次元は擬似的な2次元に近接し、2次元は仮想的に3次元を形成する。
詰まるところそれは、私たちの見方、信じるか信じないかの問題に帰着する。であれば1周回って、ボカロ紅白の方が正直でよろしい気がしてくる。空間の使い方も上手いし、ここでしかできない場面転換や衣装チェンジを実現している。素晴らしい。
身体運用の自動化
ちょっと話が脱線しかかった。
実身体のデータ化が可能となり、身体に再び埋め戻すことができると仮定する。そうすると、自分の身体の動きを最初だけその空間でやり、あとはデータ上で試行錯誤して、アウトプットだけ身体の次元に戻す、などのこと可能になる。
現代において、SNS的な身体外的な表象だけが強く求められるのだとしたら、そんなものは身体外部で自動化してしまった方がいい、のである。合理的だ。
このイノベーションは、ある種の福音である。例えば、身体障がい者が自分の身体を超え、舞えるようになる。そうでなくても、生得的な自分の体のクセというものを超越できる。まるで、ゲームのチュートリで動かすキャラクターを選択できるように。
これは男女格差や民族問題の解決に資するし、老人がもっと生き生きできる社会が実現するかもしれない。これは人類史上初の大いなる解放宣言であり、その先には無限の自由が広がっているようにも思える。
しかし、最初の話に戻ると齟齬が生じる。理想の自分を演劇という媒体で実現し、自分で見たい/見せてモテたいというだけでは、それは演劇を始める理由にはならない。外部のデータを自分に埋め込んで再生すれば、それでいいからだ。現代のSNS的な細かい承認欲求は、それで満たされる。
観測する自分が、もう1人の自分の完璧な動きを見て満足する。完結する。それは鏡を挟んで向かい合う、白雪姫の魔女のようである。もう1人の自分は鏡像である。
こう考えていくと、学生演劇でたまにある考え方、「各々のやりたい役をやらせてあげるべきだ」「身近な人に、普段とは異なる姿を見せることをモチベにするべきだ」論は、やはりどこかで限界が来てしまうように思える。コスプレ的なその考えは、データを前に演劇のアイデンティティたりえない。この辺が、自分が今の辛夷に感じるジェネギャの正体なのではないかと思う。
私たちが数年前に演劇を始めた理由は、続けているうちに実はもう消滅してしまっていたのかもしれない。散!!!
それはけっこう困る。由々しき事態だ。
2つ目の身体
身体というと、もちろん物理的なそれ自体をイメージする。しかし私たち観客は、本当にその物理的身体しか見ていないかと言われると、怪しい。それまでの歴史、文脈で編まれた身体というものもまた存在している。
それすなわち、physical bodyに対して、social bodyがあるのである(ちなみにこの用語は今作った)。これはいわゆるオーラに近い概念と言える。(注1
僕も大学1年の時から会うたびに「上級生かと思った」とか「貫禄がある」とか言われるのだが、そういうことである。附高演劇部や3年演劇で3年間も悪戦苦闘したsocial bodyは、そうそう消えないのである。
最近、サントリーのビールと「VIVANT」がコラボとして、電車の中吊り広告でスーツ姿の堺雅人がこちらを見ている。彼は乃木ですか? それとも堺雅人ですか?
大多数にとっては「どっちでもいい」のである。どっちでもある。演じる/演じられる身体ということは、劇場のシンプルな二元論からはみ出して複層化し、複雑怪奇になってきている(「VIVANT」だけに。今期は見ていないが。ややこしいね)。これは、アカデミックな理想に固執していると勘違いしやすい側面のように見える。
しかし消去法的に、あれは「ドーナツ屋で無断出勤しまくってバイトをクビになった男」(←早稲田出身のエピソード)ではない。social body は選択できるとも限らないが、消去法的に押し出されることもある。
身体は1つじゃない、だから
social bodyは、舞台上と日常とである程度共有される。だからこそ演劇をやることで、実際の身体に作用してモテることはあると思うのである(小声、実際僕が高校で演出つけてきた子達はそうだった。本人の努力が第一だが、努力が還元される環境を作ることも大事)。諦めるな。
この話を1つ目の話と絡めると、モーションデータはphysical bodyや感情を想起させる力はあっても、socialな要素は保持していない。ま、だからこそ、初音ミクは最強なのであるけれど。不倫しないし子供産まないし。
こうなってくると、「モテたい」という動機を持つことが、身体のデータ化に抗うならば1つ有力な選択肢になってくるのではとも思える。面白い。
居ることの代替
ヒト・シュタイエルという人物は、「プロキシ」という概念を提唱した。人間がそこに居ることは、大きなコストがかかる。よって人間は、どうにかしてその身体を代替しようとするのである。この代替をプロキシと呼ぶ。(注2
例えば、講義では(この言い方をすると怒られるかもしれないが)居ることの対価で単位を得ている。会議なんかもそうだろう。僕のやっている試験監督のバイトもそうだ。
人間は常に意識的に動いているわけではない。ぼけーっとする時はある。そしてプロキシは、現代のテクノロジーの元で勢力を大きく拡大する。人はzoomでカメラ・マイクをオフにしたり、出席証明の文章をチャッピーに書かせたりする。締めくくりとして、身体のデータ化ができると、空間における身体の存在ずらもついに代替できるようになる。
前々回「演劇と資本主義」で、「演劇を観るために演劇をやる空間」の話をした。その空間では、演劇をしなければ存在することすら許されない。これにはかなりの労力がかかる。
で「演劇観たいけど、やる体力ないなー」となった堕落人間はきっと発生する。ここで人間は、プロキシを活用し始める。
自分は現代脚本に精通しているのでよく分かるが、60分全てが強である劇はない。役者の存在意義にも、シーンによって濃淡がある。薄いところは、プロキシで構わないことになってくる。テクリハとかは、もはやずっとプロキシでいい。
高校演劇より大学演劇の方が、この「居ること」のコストは高い。高校では放課後には絶対練習できたのに対し、大学はコマがバラバラなので日程調整を取らねばならない。また高校の地区大会では公欠が許されるのに対し、大学は授業を切る必要がある。
re:演技する理由の再構築
…ったくこんな話を聞いていると、つくづくどうして自分は演劇なんか始めてしまったのか思わざるを得ない。この3つの論を踏まえて、改めて「どうして演技をするのか」を考えたい。せめてそれを再構築して終わろう。
個人的に思い出すのは、綾野剛である。
今でこそ人気俳優の彼だが、最初は無名だった。だが坂元裕二脚本の「Mother」や、「最高の離婚」でのいわゆる「ハマり役」により、一気に躍り出た。僕に言わせれば「最高の離婚」の綾野剛は演技力が上手いというよりは、彼の独特な雰囲気とよく合っていた、天性だった。最近だと「8番出口」などの河内大和もこの分類になるだろう。
つまり、人間の微かな思考と運が、デジタル的な試行を越えると信じる限り、従来の演劇ができるのである。偶然による、マニュアル的(手入力)な身体運用の習得の方が良い、と考えるのである。
しかし、それは怪しすぎる宗教だ。3000年の歴史の末にたどり着いた唯一の演技法が、「偶然を信じなさい」なのは、悲しいし意味がわからない。果たして、そんな世界に足を踏み入れてくる人間は何人いるだろうか。加えてそれは、商業的な現場、資本主義との相性は絶対に悪いのである。こうして話は堂々巡りを繰り返す。
終わりに
もはや透明にもできる身体を、不透明なまま演劇に固執して運用する理由は何か?
演じる意味は、自分自身で探そう。探さないとここにはない。厳しいようだけど、それがこの現代で演劇をやるということである。
「SPEC」の当麻は言う。「人間の脳は通常10%ほどしか使われてません。残り90%がなぜ存在し、どんな能力が秘められているのか、まだ分かってないんです」。身体の可能性を拓くのは、一体どこの何なのか。
(4593字)←長すぎ
↓参考文献 面白すぎる。読もう!
太田充胤(2025)、「踊るのは新しい体 複製可能な者たちのための身体論」フィルムアート社。
注1)この辺りは、補論p.266-に詳しい
注2)同p.216-220
注3)同書では、00年代の初音ミクMMD登場を起点としている。しかし個人的には前回語った通り、AIによる反復が可能になり始めてこの議論の構図に乗ったと思っている。人形だけでは比較にならない。それは重音テト(UTAU)と重音テトSVが別物なのと同じである。
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