福元の「C4P」論【1】〜Pに内在化するQ

福元5周年脚本集 

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有村崚さんによる「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」という文章群がネット上にあり、盛り上がったり盛り上がっていなかったりします。個人的には、この考え方は極めて画期的でありますが、課題もあるように思えます。まあ書いてるうちに自分の置かれた立場も変わっていき意味がなくなってしまう気もしますが、今回はこれに取り組んでみることとします。

この企画では、それぞれのwebの文章を紹介した上で、それにここで対戦するという形を取ります。到底全部の回は扱えないのですが、よければ読んでみてください。自分は本文は全部読んだのですが、多少原文との意味づけがずれていてもそこは許してくださいね。あくまで福元のC4P論です。

割と今回内容が難しく、上級者向けな気がします。とはいえ、これに取り組まねば皆さんの納得する答えは出ないと思いますので、頑張ります。普段通り、全3回(月1ペース)です。

 

↓今回扱う分

 

 

C4Pってなんぞや

さすがにC4P/C4Qが何なのか話さないのは無茶なので、本文から端折りつつ引用する。

 

クオリティを目的とした創作を 「クリエイト・フォー・クオリティ(Create-for-Quality/C4Q)」 と呼ぶ。ここでいう“クオリティ”は、客観的に認識できる結果と置き換えることができる。要するに、C4Q的態度下では、何らかの指標を持ってして、ある程度は客観的に比較ができるということである。

一方、個人性を取り出すための創作を 「クリエイト・フォー・パーソナリティ(Create-for-Personality/C4P)」 と呼ぶことにする。評価軸は、自分自身によるパーソナリティ理解の精度のみである。砕けた言葉で言うと、「らしさ」の理解に努める態度である。他者との比較はクオリティ軸では行わず、創作物を介したコミュニケーションを通してパーソナリティの差異を確かめ合う。他者の「らしさ」との相対化によって、自己の「らしさ」への理解をより高めることができる。

どこからが創作行為なのかというハードルも極限まで下げる。気をつけないといけないのは、取り出すだけでは意味がなく、取り出したものを積極的に認知しようとする態度こそがC4Pである。C4QとC4Pは両輪であるべきなのだ。

私は、この 「C4P」 の比重を今よりもう少しだけ増やすことで、人生をより豊かにできると考え、その実践に注力している。

 

以上である。個人的にはこの考え方にはかなり賛同できるし、こう分けることでコンクールなどの悩みが多少すっきりした気がする。脚本を書く中で、「自分はこう思っていたのか」と気づくことはよくある。それを経験することは楽しいし、糧になる。

ただ順序的にはC4Qが先にあり、現代の「金利生活者の安楽死」的なパラダイムシフトでC4P関連のことが社会問題化してきたのでは、という感じがしている。古代の演劇を思い出してほしいが、そもそも大規模な劇以外「記録されていない」のである。

よってP、Qと丁寧に順序をつけてくれているが、これは逆な気がしている。とはいえ、この用語で呼称する。

しかし、そもそもなぜ「創作」にはこのPとQの2種類の側面が、明らかに存在し、混じり合うようになってしまったのだろうか? 自分の経験を踏まえつつ、そこから検証していく。

高校演劇

高校演劇では、年に1回地区大会がある。地区大会には「都大会推薦校」があり、それに指定されると都大会に行ける。うちの地区は、1日分=大体3〜5校のうち1校が、進める形となっていた。同じシステムで都大会→関東大会→全国大会と進んでいく。

他にも奨励賞など色々あるものの、基本的にはクオリティのモチベーションはそこになる。附高69代の演劇部も、話し合った結果、都大会進出を1つの目標にやっていた。

この感じでやっていると、やはり一般人の感覚とはズレてくる。それは辛夷祭の3年演劇で指摘された。ユニ責にこっそり呼ばれて、「役者からそういう意見が出ている」と言われた。厳しすぎる。

 

演劇が他と違って難しいのが、自身の顕示欲・承認欲求と、純粋な演劇への情熱が不可分な点である。また、演劇は声が小さくて滑舌が悪いよりは、声は大きくて聞こえた方がいいという、ある程度明確な尺度は存在している。この「マイナスを積極的に直す」ことが、限られた時間の中では優先された。

辛夷祭も、辛夷杯といった他者からのクオリティ判断制度がある。1個上の先輩などからの厳しい指摘をクラスで受け入れるのは、あくまで(パーソナリティより)クオリティを優先しますよ、という暗黙の合意があって成り立っているのである。

そもそも演劇の根底には、評価のシステムがあることとないこと、どちらが幸せですかという問いがある。個人的には、そのシステムがある程度透明で合理的なら、存在する方が良かったという肌感覚である。

大学演劇はそのシステムが(ほぼ)消滅する。しかし、それで主宰が強大になり意識が内面化した結果、宗教じみているところも少なからずある。パーソナリティが個人の中にある場合はいいが、それが集団の強迫観念になってしまうと苦しいね、という話だ。

 

このように、初等教育としての演劇は、その制限の中でもっぱらQに意識を持って行かれている。Pの意味は教えてくれない。

脚本コンクール

もう1つ自分がやっているのが、脚本コンクールである。コンクールの大賞を受賞すると、賞金がもらえたり、受賞作を映像化できたりする。そして何より、アマチュアからプロになれる。このコンクールの評価の尺度も、もちろんQがPを圧倒する。本当にパーソナリティを追い求めて脚本を執筆している人間も、いなくはない。しかし大抵の人が趣味だとしても、より良い結果を求めるようになる。コンクールは脚本家の卵をレールに乗せる機構である。

しかしこのコンクールが、問題児なのではないかという気がする。それは運営側、テレビ局や映画会社の都合が大きい。たま〜に一握りの才能が抽出できればいいのであり、それ以外の対応は知ったこっちゃない。応募する人々は、私も〇〇さんみたいになりたい! と一途に希望を持ち応募するが、大多数は落ちてしまう事実がある。

昔、例えばモーツァルトやベートーベンは、親類が皆音楽家であり、身の回りに楽器があり、という所与の環境があって初めて、偉大な音楽家になれた。しかし今は違う。Wordがあれば誰でも脚本は書けるし、コンクールに応募するのに身分は必要ないし、書くきっかけとなる作品も世の中にごまんと転がっている。誰でもできるし、できてしまうのである。

かつて運だった「プロの脚本家になれるチャンス」(黒澤明とか思い浮かべるとわかりやすい)を、すべて努力かのようにコンクールが「見せている」、のではないだろうか。コンクールはプロと趣味とを接続し、その中身をごちゃごちゃにかき混ぜてしまった。

夢を与えるコンクール

こうなってくると、たとえアマの端くれでも「いつかはプロになって生活すべきだ、せねばならない」という意識が内面化されることが多い。それは他者の意識≒クオリティが内面化されるということであり、パノプティコンである。今まではプロデューサーが連絡してくるまでゴロゴロしても(芽が出なくても)構わなかったものが、毎年締切までに60分尺を絶対書き上げねばならなくなった。これは、ボカロやイラストといった他の界隈にも共通する事柄だろう。

 

相沢沙呼著「小説の神様」という本がある。これを読むとわかりやすいのだが、主人公は本が売れないことを自身の中で過剰に問題化し、引退を決める。このように現代においては、Qの要素は内面化され、自己の再定義に用いられる。この描写は、もちろんリアル小説家(?)の相沢の視点・経験が多分に含まれていることは、想像に難くない。

 

YouTuberの旗印となった、「好きなことで生きていく」。しかし、その現象が示したのは悲惨にも逆のことだったのではないか。つまり生きていくには好きでなくなるまで突き詰める必要があり、純粋に好きである限り物理的に生きてはいけない。インターネットがもたらしたのは、むしろこうした2つに分離した社会だったように思える。

 

私たちが最初に見る創作、ドラマであったり映画であったり音楽であったりは、ほとんどの場合プロ=クオリティの高い側にいる人たちが作ったものである。つまりその入口は「Q」であると仮定して構わない。

一方、「P」を重視する姿勢は誰も教えてくれない。しかし、この現代社会で生きる人々にとって、「P」の価値観もまた必要不可欠なものであるのは事実だ。

どこかで「P」が必要になったタイミングを自分自身で察し、自分(たち)で学びとっていくしかない。その社会保障は存在しないし、見せられる夢は永遠に終わらない。

終わりに

この回で語ったことは、脚本/演劇にはC4Qの意識がかなり不可分に埋め込まれており、PとQを剥がそうとするのはかなり労力のかかることですよ、というそれだけである。でも、できないできないと言うだけでは、見えてこない問題があるので、あえて分離を試みるのである。それを理解された上で、次回以降の議論に進んでいきたい。

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