【白い巨塔#3】死に際で財前が伝えたことは【歴代遺書の比較】

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9/6・7 辛夷祭71

白い巨塔」最終回・21話。財前が志半ばで、がんに倒れる。登場人物たちは、没落していく財前に何を思い、動くのか。そして冒頭で述べた通り、「白い巨塔」はドラマが数パターンある。財前の死因のがんも時代に合わせ変わるが、最後に読まれる遺書もまた脚本によって異なる。今回の遺書に込められた思いは何か。比較しながら見ていこう。

 

ここまで

前回までのあらすじ。財前と佐々木は法廷で対応の正当性をめぐって争うが、東や里見の証言や柳原の吐露によって、情勢は財前不利となっていく。そして2審、ついに原告有利の判決が下される。最高裁へ上訴…の流れの中、法廷で財前は倒れる。過労でガンも進行していたのだ。

ここで財前が死ぬのは恣意的に思えるかもしれない。しかし、ここまで社会的・個人的な葛藤を回収してきた中で、死という物理的な葛藤を与えることで物語を重層化し、加速させることができる。

東は財前の執刀を引き受け、開胸。しかし肺がんは転移しており、摘出してどうこうできる程度ではない。やむなく手術せず内科的手段で延命、一大事なので財前自身にこの事実は隠される。里見にも。

がんについて、高校の授業で発表させられた関係で無駄に詳しいのだが。この前のバージョン「白い巨塔」では胃がんであった。冷蔵技術の発達していない時代の日本では塩漬け等が保存手段として多く、よって胃がんが多い。技術の進歩によって胃がんは減るが、タバコ習慣が一般的だった昭和では肺がんが目立つようになる。今作の死因は肺がんだ。その後タバコを吸う人が減ったことで肺がんも減る。ちなみに令和版は膵臓がんらしい。検診で見つけづらく、減り止まっていて相対的に目立っているからだ。こんなわけで、財前の死因を見ると時代がわかる。

事実を隠される財前

目を覚ました財前は、手術は成功したと聞かされるが、何より自分の体の症状が好転しないことから一抹の疑問を覚える。メスを握れなくなり、目が黄ばんでいくという症状が、財前全体の衰えという的確な比喩になっている。

財前は医局でカルテを探すが、既にそれも差し替えられた後であった。財前は騙し続ける柳原に「裁判のときそれくらいの度胸があれば」と言うが、これは示唆深い。サブテクストとして、財前が既に自分の証拠の不十分さを認めていたということになるからだ。

里見との対面

深夜、財前は里見の病院を訪ねる。CTを撮り事実に気づいた里見は、真実を伝えるかという強い個人的葛藤を得ることになる。

この、CTを挟んで財前と里見が向かい合うシーンは傑作だ。財前がただ「無念だ」と言い受け入れ、里見は彼を救うという究極目標を、個人的、そしてメンツ=社会的障害により諦める。このシーンが実質的なMPとなる。今後は財前が真実を知り、周辺が隠すという情報の不均衡のサブテが上手く活用される。

財前は11話で、佐々木を殺した側の組織の中心として視聴者から見られる。しかしここでは、財前自身が組織の出世というシステムの中で押しつぶされ、救われず死んでいく存在として反転する。ここで財前の印象はーから+へ反転し救われ、視聴者は自分の目線を恥じることとなる。

全体21話を通じて、財前と里見は単純なバディとは言えない。しかし今、互いに互いを必要な存在であると認めるにたどり着いた点において、彼らは今バディであると言える。

そして柳原にシーンは移る。佐々木親子の弁当の前に謝りにきた彼は、亀山の言葉を途中で切って自分を反省し、謝らずに帰る。謝らなかったことはーかもしれない。しかし自分で責任を担おうとする姿勢になる点は、#2の方向からの転換点と言え、彼の印象も救われる。

ケイ子

杏子はケイ子を病室に案内する。ここ、屋上で話すシーンがケイ子と財前の最後のシーンとなる。財前は自分のしてきたことが正しかったのかという自問自答をする。これは先ほども述べた通り財前というキャラクタの二面性、反転であり、病気の進行という物理的障害とも対応している。ケイ子はそれを肯定も否定もせず受け止め、財前の終焉をひどく悲しむ。ケイ子が愛人という関係とはいえ、物語の中で里見と彼女だけが財前を受け止められていたのだと気付かされる。

ここを実質的な2TPとして折り返し、財前は倒れ、危篤状態に陥る。

最後の瞬間

呼吸が限界の財前のベッドの前に、皆が集まる。財前が昏睡状況なのをいいことに(?)、彼に溜め込ませた本音を言わせる。まず鵜飼教授に「誰? 出てけ」と言う。鵜飼はがんセンターの手続きのため、財前の死に正面から向かい合っていない。東は以前に、財前は今回に印象が+に転じたが、彼だけはーを担ったまま終わる点に着目したい。「白い巨塔」としての組織の悪さを象徴していると考えていい。そして鵜飼がそれに小さい器で怒り出ていくのは、ある種コメディ的とも言える。

そして里見と2人きりになった財前は、夢の中でメスを握り、里見をがんセンターに就任させ、佐々木をそこに誘って、満足して死んでいく。最後に放った言葉は嘘偽りないもので、深層心理として財前が隠し思い続けてきたことと言える。まさに「無念」のまま物語は幕を閉じる。

遺書の比較

さて、最後は財前が解剖室に運ばれるシーンのみだが、ここでは「白い巨塔」歴代脚本の遺書を比較してみよう。何が見えてくるだろうか。

唐沢版(2003)

里見へ
この手紙をもって、僕の医師としての最後の仕事とする。まず、僕の病態を解明するために、大河内教授に病理解剖をお願いしたい。

以下に、癌治療についての愚見を述べる。癌の根治を考える際、第一選択はあくまで手術であるという考えは今も変わらない。しかしながら、現実には僕自身の場合がそうであるように、発見した時点で転移や播種をきたした進行症例がしばしば見受けられる。その場合には、抗癌剤を含む全身治療が必要となるが、残念ながら、未だ満足のいく成果には至っていない。これからの癌治療の飛躍は、手術以外の治療法の発展にかかっている。僕は、君がその一翼を担える数少ない医師であると信じている。
能力を持った者には、それを正しく行使する責務がある。君には癌治療の発展に挑んでもらいたい。遠くない未来に、癌による死が、この世からなくなることを信じている。ひいては、僕の屍を病理解剖の後、君の研究材料の一石として役立てて欲しい。
「屍は生ける師なり。」
なお、自ら癌治療の第一線にある者が早期発見できず、手術不能の癌で死すことを、 心より恥じる。

田宮版(1978)

君の忠告に耳を貸さず、俗事に捉われて自身の内臓を侵している癌に気付かず、早期発見を逸し、 手術不能の癌で死ぬ事を癌治療の第一線にある者として今深く恥じている。それ以上に、医学者としての道を踏み外していた事が恥ずかしくてならない。
しかし、 君という友人のお陰で、死に臨んでこうした反省が出来た事はせめてもの喜びだ。あの美しい薔薇は病状を慰めてくれた。母を、母を宜しく頼むと伝えてください。
僕の遺体は大河内先生に解剖をお願いして下さい。後進の教材として遺体を役立てていただく事が、医師の道を踏み間違えていた僕の、教授として出来る唯一つの事です。
君の友情を改めて感謝します。

岡田版(2019)

自らの肢体をもって、がんの早期発見ならびに進行がんの治療の一石として役立たせていただきたい。膵臓がんは現在もなお難治性がんであるが、病態の解明がその克服の端緒につながることを信じる。私の場合は、がんに伴う血栓症が致命的な合併症を起こしたが、逆にこれを標的として早期診断や治療につなげることも不可能ではないと愚考する。

しかし、そうした治療開発を里見先生とで自らの手で成し遂げられなかったのは痛恨であり、自らのがん治療の第一線にあるものが、早期発見できず手術不能のがんで死すことを恥じる。浪速大学病院第一外科の名誉を傷つけてしまったことを、深くお詫び申し上げます。

里見、こうして虚しく死を待つだけになっても君と共に病に苦しむ人々を治療し、その生命を紡ぐ医師として人生を全うできたことを誇りに思う。

里見、ありがとう…

語感も結構まちまちであり、唐沢版は比較的文末が硬い。そして里見の扱いだが、岡田版・田宮版がバディとして友達としてはっきり感謝しているのに対し、唐沢版だけが研究者としての里見に終始している。そして締めの一文が、外科医財前としての切れ味を生かした自己反省で終わっている。つまり文章全体に客観性があり、だからこそ病気と闘う私たちにとって共感のできるものだと言えるのではないだろうか。

個人的には唐沢版がダントツでよくできていると思う。皆さんはどう思うだろうか。むしろ里見を救ってあげないのは感情の抑揚を欠くと思われるだろうか。

終わりに

こうして物語は、主人公である財前が死ぬことで終わる。とてもエンタメ的とは言い難いラストだ。しかしなぜ「白い巨塔」は今日にまで通用する力を持っているのだろうか。

財前の究極目標は普遍的な「偉くなること」だった。それが根底にあるからこそ、随所のダイアログでサブテクストを読めている。視聴者は、教授選や手術シーン、裁判の経過を見ているのではない。財前という人間の行く末を見守っているのだ。

財前は二面性がある。強い財前と、弱い財前。傍若無人な彼と、弱気になる彼。そして私たち視聴者も、多面性を持っている。統一的な価値判断などあり得ない。財前に自分を重ね共感し、応援しているのではない。財前の中に、自分と通じるものを見出し、怖がっているのだ。脚本の面白さは、自分と異なる登場人物に対し「自分も同じかも」と思いびびる点にある。「こいつわからない」と言っているうちはまだ本質を理解できていない。

財前のリアクション、死に際の言葉に至るまでの一つ一つによって、私たちは彼の本当のキャラクタが見出せるようになる。そして最終的に彼は破滅する。

これはシェイクスピア以来の悲劇と言えるのではないだろうか。現代のドラマを見る上で、悲劇というジャンル分けはほぼ死滅しており意味をなさない。しかし今作ではそれが大きな意味を持つ。

財前の中に自分を見出し、破滅への怖さを感じる。それが時間をかけハイクオリティで作り込まれたから、時代を超え、普遍的に人々に愛される作品となったのだ。

次回からは「SHERLOCK」(BBC)。

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