【大豆田とわ子】の最終回は結局何を言いたかったのか<新歓向け>

 

最新テレビドラマを最後に分析するだけだと間が持ちませんので、時々このような過去の作品から引っ張ってくる企画も行います。最新作のとは違い、よりストーリー性があり、伝えたいことに特化した文章が書けるかなと思いますので、ご期待ください。さてそんな企画の第1弾が「大豆田とわ子と3人の元夫」(フジテレビ系・制作関西テレビ)。脚本は評判名高い坂元裕二である。

最初にこれをやろうと思った理由だが、ネット上を見ると結構いい加減に思える記事が多いのである。「このドラマは視聴者に新しいふわっとした印象を持たせたかったのだ」とか。でもそんなこと本当に言えるのだろうか? 最終回を技術面から見ていこう。

母の手紙

とわ子は偶然母の恋文を発見する。これは自分が存在したことで母の幸せを阻害したのではないか、自分の存在価値は何かという葛藤を生むものである。脚本術で俗に言われる「契機事件」と呼ばれるあれである。

そう考えると、1話中程の回想で母が述べた「一人で大丈夫か、それとも誰かに大事にされたいかという」問いかけがストーリー全体を貫く「問いかけ」であったことがわかる(これも映画だとかなりの確率で見られる)。ポイントとして見ておくべきなのは「誰かに大事にされたい」の誰かは特定の1人を指すことである。

そしてとわ子と娘の唄は手紙の住所を尋ね、手紙の相手が女性だったことを知る(ここの意表のつき方はよくできている)。そこで話すうちに、母はとわ子のことを大切にしていたし、家族と恋人、選んだ方の世界が正解だったよという回答を得る。これによってとわ子は、したい選択をしていいんだという気持ちに変化する。この後唄が西園寺君と別れると言い出すが、これはそういった前現代的な「家族」という枠組みではなく、とわ子とその女性が仲良く話しているようなゆるい枠組みに魅力を見出したから、と解釈して構わないだろう。

よく考えると、近年の坂元作品は、既存の枠組みにとらわれない人間関係というのが通底するテーマになっている。「カルテット」は家族との対比で夢を追うカルテットという存在は持続できるのか、あるいは「anone」は偽札を作る擬似家族、今回だって「3人の元夫」というのは法律制度ではカバーできない関係性である。

ドアに挟まれる意味

この後とわ子は初恋の相手と食事しに出かけるが、少し期待していたのに彼から「好きな対象ではない」とバッサリ切り捨てられる。そして帰る途中ビルの自動ドアに挟まれて動けなくなる。ただの面白いシーンにも見えるが、演劇っぽい視点から見てみるともう一つの解が得られる。

境界である。

これは世界や価値観が変化する境界を意味する。大抵この手の境界は狭い。「千と千尋」のトンネルも、「ハリーポッター」の9と3/4番線も、ドラえもんのタイムマシンだって、狭いところから出てくる。(ある意味)ずいぶんがさつな演出だが、挟まれていて狭いから境界を通っていると解釈できる。そうだと仮定すると、自動ドアに挟まれる前と後でとわ子の価値観は大きく変化することとなる。ではどのように?

ボーリング

この後3人の元夫がとわ子の家に押しかけてきて、ハワイ帰りの中森がお揃いの英字新聞Tシャツを配り、家でパーティをして、3人をボーリングのピンに見立てたとわ子のボーリングごっこが始まる(これだけ読むとはあ? って感じだと思うのでぜひ見てほしい)。で、1話の最後にはとわ子が本物のボーリングで3ピン倒してガッツポーズするシーンがあり、ここはその場所と接続している。それを踏まえて解釈するとこうなる。

社会には無数の男性がいる。とわ子はその中でたまたま「好き」という言葉でこの3人を恋に落とすことができた。とわ子はそれまでそのことを受け入れないで生きていこうとしていた。なぜなら1話でとわ子は「あなたたち(元夫)ではない一生一緒にいられる人を探すから構うな」という発言をしている(これもとわ子の成長の軌跡)。しかし母の件を通して考えてみれば、とわ子の周りに3人も支えてくれる人がいるのは単純に幸せで、かつ永遠ではないことだ。だからとわ子はそれを受け入れ、“利用”することにした。

これが境界を通して得たとわ子、ひいては物語全体の結論である。

ラストのパン

ラストシーンで、とわ子は会社でパンを食べる。これも伏線で、(大体で申し訳ないが)7話でとわ子は「パンのカスを落として食べる人は幸せが逃げますよ」みたいなことを言われており、その時は落とすまいと滑稽な形で食べていた。しかし今とわ子は幸せを落とすことを躊躇しない。私には私なりの幸せの形があり、それは誰かに決められることではないのだ。