【不適切にも】ミュージカルより着目すべきは“カットバック”

記念すべき初回記事はやはりこれからだろう。TBS系2023年冬金曜ドラマ「不適切にもほどがある!」。宮藤官九郎担当の久々のプライム帯ドラマ脚本としても話題を呼び、終わってみれば一つの社会的現象と言えるまでの高評価を得た。実はこの文章を書いてる自分は、まだ高3なのに「あまちゃん」と「マンハッタン」あたりを除いてほぼ全てのクドカンテレビドラマを見たというなかなかのヘビーウォッチャーである。そういった視点からも見ていきたいと思う。

 

葛藤を見る

まずは主人公の葛藤がどうなっているかから。初回記事なので丁寧に書いておくが、葛藤とは主人公の究極の目的と、それを妨げる障害から構成される。そして画面上に人物の貫通した行動の形が現れる。この葛藤の方向を押さえておくことが、脚本を分析する上で、あるいは自分で書くうえでも重要である。これは><という記号で表される。

 

今回は

家族(純子、渚)を守りたい><

・素直になれずカッコ悪い自分自身

・勧誘してくる男たち

・令和の不可解に傷つけるルール、コンプラ

といった形になる。まずこれを読み取っておくことが大事だろう。

 

母親がいない状態で育ってきた市郎と純子は普段は口が悪く喧嘩ばかりしているけれども、心の奥ではお互いをいいやつとして思っている。がこれが恥ずかしくて言えない。それをサブテクストとして活用しつつ話を進めている。例えば6話では、娘が死ぬと知っていてリアクションに出てしまったら嫌だからと、素直になれず駄々をこねる市郎(すなわち葛藤)に対し、真彦が説得して変えさせている。

 

また、1話では市郎が順子の“ニャンニャン”を止めたいということを貫通行動にしている。さらに、2話で渚のことを“なぜか”助けようと市郎が現代に戻っているが、これらも渚を助けたいという究極目的の一つとして捉えれば、統一的な解釈ができる。これは昭和令和問わず一つの理想系の家族だと思われ、ストーリーの貫通に一役買っていると思うが、どうだろう。

 

またここには疑似家族の形成、みたいエッセンスも見られなくもない。6話で市郎とサカエが家で話しているシーン、あるいは最終回の渚と純子が話しているシーンはそれを感じさせた。

 

でポイントなのは、この葛藤が「不適切」と異なったベクトル上の価値ということだ。家族愛と不適切をどうラストに向けて一本の軸に繋げていくのか。やはりこれがラストに向けての一番の見どころだった、ということになる。

最終回では純子との話をすると見せかけて、そちらは特に変化なし。落ち込んだ大人の渚を高校生の純子が励まし、渚が元気を取り戻す。そして市郎が渚と別れるという「家族」のシーンを中盤に持って来た。つまり最終回に限れば市郎・純子⇔渚という関係性だったのだ。そして市郎が昭和の「不適切」を気にするようになる成長の軌跡を分かりやすめに入れて、全体を構成した。

二項対立

今作では世で言われているように、昭和の親父が令和にタイムスリップすることで互いの時代や常識を対比させている。昭和と令和を、評論的な言葉を用いれば二項対立を用いて描いていることになる。この二項対立は比べることで双方の特徴が見やすくなり、主張が行いやすくなるという長所があるが、同時に弱点もある。それは、事象の過度なデフォルト化、下手に二項対立すると事象の個別性が失われるという点にある。事実、1話では居酒屋で、見ず知らずの会社の人が、どうやって後輩を指導をするかという話だったが、(実際どうかはわからないが)現在高校生の自分から見るとコンプラを誇張しすぎというか、それは令和を誇大広告しているのではないかという印象を正直持った。

しかし2話以降では、令和の舞台をテレビ局という一種のコンプラが必要な特殊な場所に固定することで、その印象をうまく回避したと言える。

 

また良かったことは、昭和と令和の主従関係を全くつけずに、双方両方を論じることによって中立性を確保したことである。どちらが正しく、どちらを変えさせるべきなのかではなく、ただただメディアとして時代描写に徹した。また市郎だけでは、論じる上でバランスが悪いので、令和から昭和に飛ぶ人間としてサカエを配置し、バランスをとったのだ。

 

小道具の徹底

1話の最初、市郎がバスを降りる場面では、イヤホン、スマホ、そして最後に小泉今日子のポスター(これは本当に上手いと思った)で、未来であることを表現していた。しかし他の脚本家であれば、会話内容であったり、あるいは語調といった方面からの固定もあり得たのだろうと思う。徹底的に小道具を用いている、というのが1話の印象であった。

 

カットバックの改革

ここからが本題。宮藤官九郎のドラマ脚本といえばやはり名物はカットバックだと思う。

カットバックとは、映像の用語で、2つのシーンを細かく往復させる技法を指す。特にTBSでの作品では顕著で、「うぬぼれ刑事」や「ごめんね青春!」の1話などがカットバックを前面に出したものとして挙げられる(見られる人はぜひ見てください。カットバックが見事だから)。

 

ここで2話冒頭を思い出して欲しい。喫茶店で渚が会社のグチをいう場面。まさしくカットバックなのだが、これまでの作品に比べて、シーンを割る回数が明らかに少ない。(自分の記憶が正しければ)合わせて2〜3回ほどしか跳んでいない。これまでのスタイルであれば、もっと現在に引っ張り戻してくるきっかけを使っていたはずだ。なんというか、配慮しているなという印象を強く受けた。

 

その後3話以降も令和と昭和の同時並行でカットバックとなるシーンは登場するのだが、こちらも過去と様相が異なる。というのも過去の作品では、現在と回想というシーンに主従関係がついていたのだが、それがないのである。例えば「ごめんね青春!」は、現在で平助が生徒やみゆきに話しているシーンが主、平助の高校生時代の回想が従として働いていた。

しかし今作は令和と昭和、同時並行なだけでどちらもメインである。(多分例えが古いのだが)両A面、と例えるとわかりやすいだろうか。そして過去作は、主の感情が出てくるところで従から主へと引き戻していたが、今回は番組制作の同時並行、歌謡曲、あるいはエモケンのドラマあらすじなど、小道具と設定で現在過去の接点を作り出し、主から主へと行き来させていたのが印象的であった。

 

これまでクドカンの独特なカットバックの勢いは、視聴者を引きつけ、熱狂的なファン(自分を含む)を生み出してきた。しかし一方で、日常生活の視聴において少し目を離すと、今が主なのか従なのか、どこにいるのかわからないという問題(?)も生み出す。(特に「いだてん」はこの時代飛びの多さが敬遠の要因として取り上げられ、悪目立ちしてまった印象)。自分も学校でこのことについて話したことがあるが、やはり「気を抜くと今のシーンがどこなのかわからなくなる」と言っていたのが記憶に残る。しかし今作ではそれは起こりにくい。どちらも主で、並行して進行するから、途中で見始めてもそこが昭和か令和かさえ分かってしまえば、そのシーンの内容はそのまま楽しめるのである。だからこそ、今作は多くの人に希求ができたと言える。

 

これに関しては、宮藤さんが自身の脚本を綿密に分析してこうなったのか、はたまた企画の設定的に一種「たまたま」こうなったのかは分からない(というか本人に聞いても多分分からない)。しかしながらこのカットバックの改革効果は大きく、実際ドラマの話題性、盛り上がりを支えるのに対して、間接的にじわじわと効いていたのであろう。

 

と思っていたら、最終回だけ主従関係や伏線回収がしっかりある懐かしい(?) スタイルだった。

 

おわりに

ミュージカルであったりとか、あるいはテレビとしての“自己批判”が効いた新しいドラマだということは他の記事でも言われるであろうからそちらに任せる。しかし今回述べたような、細かい構造の積み重ねを分析することこそが、クドカン作品の面白さを理解する上では不可欠であり、醍醐味と言える場所だろう。