【MIU404#5】バディ物語としての”0”か”1”か〜11話

MIU404、最終回11話。脚本野木亜紀子。夢オチや最後のシーンを軸に、脚本のバディものとしての本質を提起することに繋げていく。気づいたら5000字。3000字縛りはどこへ。

この回は尺の都合でカットされてしまったシーンが数多くあり、それを把握することが理解に繋がるので、「MIU404シナリオブック」の最終回脚本を基に話を進めていく。現実的な問題として、この最終回はコロナ禍の撮影で、非常にタイトな撮影スケジュールであり、そういう意味で甘く演出を評価するべきなのかもしれない。しかし、やはり出てきた作品自体を純粋に評価しなければ公平でないと思うので、それでいく。

 

逆行するバディのアーク

この回は脚本だと、前回のあらすじ振り返りタイムがなく始まるので、前回から完全に独立した物語、あの流れがひと段落ついたのだという印象を読者に与える。映像化した時にいくらかあらすじが入ってしまったが。

志摩は、前回正義を信じたがために偽情報を飲み、久住を取り逃す。志摩はそのことを失敗だったと思っている。ポイントはあくまで自身の失敗であって、伊吹の失敗ではないと思っていること。そのため警察である自己を否定し捨て、久住に当たろうとしている。

しかし伊吹はそんな志摩と足並みが揃わなくなる。相手を疑い、要らないという態度を取られたことを不満に思う。ここまで綺麗に揃ってきたのに。盗聴のシーンは、1話の志摩→伊吹から伊吹→志摩に逆転したことで、対称なストーリーとなり、繋がりを意識させる。また蒲郡の言葉「刑事としての自分を捨てても、俺は許さない」を反芻することで、伊吹がルールを守るのかという初回と同じ価値軸に帰着させている。

前回も述べたように、一度完成したはずの2人のバディとしてのアークが崩れる。それは単純なエンタメではあり得ない、あってはならないことである。

久住を探す志摩の捜査方法、スマホケースからの探索は劇中で描かれているが、伊吹はそういう描写がないまま一気に久住に辿り着いている。単純に伊吹のを書く尺がないのはそうだし、前回のカレーうどんくらい伊吹は超人的な情報収集ができるから納得してね視聴者さん、という感じであり、ギリギリだが成立はしている。

海のモチーフ

ところで、シェアオフィスを追われた久住は今回、クルーザーで船の上で暮らしている。海というモチーフは、広大で強く、人智で扱えない自然の神といった形なのは納得がいくだろう(ディズニーのモアナとかを思い浮かべたあなたは正しい)。そう考えると、対する機捜のフィールドは東京の陸である。メロンパン号は陸だから走れる。じゃあ11話の最後で出てくる川は? というと中間である。ストーリー的なたまたまかもしれないが、この辺を理解できると楽しくなってくる。

2011と2020

未だに戦後〜年という語り口がされる日本。しかし戦後日本の中で最大の転換点と評されるのが2011年と2020年である。2011で戦後一番現在の政府の制度は揺らいだし(何より心理的な影響が大きい)、2020に向けて経済は回復していく(はずだった)。

伊吹と久住が話している場面で、久住が東日本大震災と関連しているんじゃないかという考察が出ていた。まあ名言はされていないが、はっきり言ってこれは考察というより、事実として考えて間違いないのではないだろうか。

夢オチの意味

2人は久住のクルーザにやってくるが、足並み揃わず閉じ込められる。ここで夢シーンに突入するが、この後も2人が同時に起きることはなくすれ違っていく。これは先ほど述べたバディの不信を表現しているとして良い。

ここで志摩と久住は、ステータスの上下を取り合い出す。これを常に無意識にやってしまうのが志摩という人物である。脚本版には志摩の「昔アヘンで滅びた国があったな」というセリフがあり、個人的な性癖に刺さる。

※何気にこのブログ初登場のステータス:ステータスとは、役者の身体が偉そうに見えるか卑屈に見えるかという、演技論の一つ。ステータスが高い/低いという使い方をする。最近ので一番分かりやすいのは、「VIVANT」の乃木とF。

伊吹は、自身の中にいる凶暴さを指摘されて(自分の中にいる犬)、自己をコントロールできるかが焦点となっていく。

この場面は、伊吹と志摩のそれぞれの弱点を久住がついていくという会話劇となっている。それぞれの弱点を強調、正確に突くには現実の久住でも少し無理がある。つまり夢であることによって、久住が2人を究極に追い詰められる。そのための夢設定だったのだ。この辺りは、ドラッグというモチーフも成立した感覚を出すために手伝っている。演劇モードで捉えればこのくらいの仕掛けはなんてことないのだが、やはり刑事ドラマという枠の中で考えれば、理解難易度が高めなのは否めない。

結局、志摩は久住に撃たれ、それを見た伊吹は久住を撃つ。何も報われないラスト、で終わるはずだった。

分かりにくさの原因

脚本上では、2020オリンピックが始まり、九重と桔梗がそれを見て雑談しているシーンがある。そこでは、志摩と伊吹は失踪したままとなっている。ドラマ版ではこのシーンは消滅したが。つまり2020が入ってきた理由は、2020をやっている世界線=非現実、これに志摩伊吹の帰結を結びつけ、この世界線はあり得ないとうっすら視聴者に伝達することだったのだ。逆に現実は、2020が無い=志摩伊吹は生きている。この対比。

そして志摩の独白が入るが、ドラマ版では勝手に球が戻り始めるのに対し、脚本版だとここに志摩が球を掴みあげる場面が入る。このシーンはここまでの10回で存在しなかったものである。現実でも非現実でもない、極めて中間なシーンである。ここまでは夢、この後は現実であるから、このシーンはその中間であらねばならなかったのだ。

ドラマ版だと、ピタゴラスイッチの起点が、陣場の病室のうどんが崩れ落ちることになっている。しかしこれは現実の出来事である。そうすると夢と現実の境目が極めて曖昧となり、それがえっ夢オチだったのという感情を生むことになる。後者の志摩が拾い上げるパターンなら、その後陣場のうどんが落ちる→電話で伊吹起きる→飛び込む→桔梗が指示を出す…と、綺麗につながる。単純に、ここは演出陣の理解不足だったと言えるだろう。

こんな些細なシーンで全体の印象が変わるのか? といった感じだが、それがこの表現という仕事の面白さであり難しさである、と言えるだろう。

最後の攻防

船から脱出した志摩と伊吹は港に戻り、メロンパン号で久住を捜索する。志摩が伊吹に謝り(2話からの繋がり、関係の逆転)、二人のアークはーから+へ。ついに久住を警察と同じ世界線に引きずり出した。

この時の衣装、loveJapanTシャツは、脚本上ではっきり明記されている(結構これで話は変わってくる)。2人がJapanを背負うのはどこか滑稽でありながら、それでも地道にのみ犯人を追い詰める2人は確かに東京を守ることを表しているようでもある。一方久住は、Tシャツの色が混合しており、国籍が一つに固定されないような感じを出す衣装となっている。

一方の久住が上陸した後の電話帳は、演出のアイデアのようだ。本心では人を道具としてしか見てない久住の本質が出ており、グッドな演出だ。前の言葉のカバーも兼ねて。

屋形船に乗る久住を見つけた伊吹(伊吹が奇跡を起こすことは認められている)。ここからはエンタメとしての基本でありかつ野木脚本の結晶でもある、価値軸に沿った+/ーの転換劇だ。伊吹は船に飛び込むが、逆に久住は船の上へ。そこを連携して追いかける志摩。撒ききれなかった久住は船へと再び飛び降り、自分の頭を橋脚にぶつけ、船の中へ。中にいる久住の知人に、警察に襲われたと知らしめる作戦だ。どこまでも久住は社会の無責任さに依存している。

しかしそれは通用しない。なぜか。久住のドーナツEPを彼らが勝手に見つけて飲んでいたからだ。陸で走っていたのはこれのための脚本的時間稼ぎとも言える。久住の行動の帰結が、ついに久住自身の首を絞めることとなった。

脚本版だと、この後の志摩伊吹は、「つきものが落ちたような2人」との描写がある。ドラマ版でそれを起こすのはハードルが高かった気もするが、論理はよくわかるのでその版も観てみたかった気はする。

脚本家:野木亜紀子をどう捉えるか

最後の話に行く前にこれを。知人と話をすると、結構な人数が野木さんに関して「真面目で、かっちりしている」という印象だと聞く。それはここまで見てきたように一定程度正しい。

しかし、元来エンタメというのはかっちりしたものである。一対一の正確な対応が、多くの観客を呼ぶ原点になる。非エンタメの採点が「これができた」という加点方式なら、エンタメは「これができていない」という減点方式になると思っている。

つまり野木さんがかっちりしているのではなく、野木さんがエンタメの真髄を理解しているから、我々にはかっちりして見えるのである。その表現を、対応を、どれだけ正確に読み取れるか。それが野木脚本を読む面白さであり、皆さんもぜひそれに挑戦してみるといいのではないだろうか。今作だって表面のストーリーをさらうだけなら伊吹でも楽しめるが、その本質を見るなら、ここまで書いてきたようにかなりの洞察力が必要となる。

野木さんはクドカン坂元裕二と比較すると脚本家デビューが遅く、かつ叩き上げでここまできた人である。ヤンシナの作品と、2010後年代に書いていたラブコメっぽい作品とは、見てみるとわかるが結構作品性に乖離がある。つまり、野木さんは作家性というよりも、本質を理解し苦しんで走り続けてきたことが、脚本家としての実存であるのだ。それはMIU404、機捜の2人とも重なるものがあるのではないだろうか。

ファイナルシーン

「アンナチュラル」は、3人のアークが最終話に向けて綺麗に+に回収されるのが、エンタメとして美しい。しかしMIU404は単純に+に向かわない。伊吹と志摩のバディとしてのアークを、今回強調して書いてきた。2進数としての1は+、0は変わらないだとして、今回はどちらに当たるのか、1なのか0なのか。エンタメとしてのアークは、現代社会に現実性を持って立ちうるのかという点を、野木さんは作品を通じて問い直した。MIU404がアンナチュラルに対し批判的な作品であるという彼女の言葉の真意は、何よりもここにあるのではないだろうか。

さてここまで見てきたならばこの物語を1と取ることも、0と取ることも、根拠は押さえられるし主張できる。しかし、野木さんの考える答えは最後に明かされる。

コロナでオリンピックが潰れた東京を、普通の車で走る志摩と伊吹。無線を受けて現場に向かい、最後新国立競技場を上から見ると0の形になっている。この物語は、0なのだ。

ここまで、MIU404は東京の人々の物語であった。ステッキを落としたおばあちゃん、息子を疑ってしまった田辺夫妻、悪の道に引きずられた成川、生きる希望をなんとか託した青池、社会の歪みを無視できなくなった水森。彼らは一種の社会的弱者である。その弱さは志摩も伊吹も同じ。スーパーマンとしての力はどこにもない。彼らが下した決断は、必ずしも正解ではなかった。しかし人生はそこにあり、カタルシスを私たちにもたらした。

周りの環境によって私たちが行う決断は、後から私たちの行動や方向性を、無慈悲に決めてしまうものなのかもしれない。その決断が、些細な出来事の帰結だったとしても。それは、選択と帰結が一本の線上にあるという論理性、近代の思考法の犠牲だ。言い換えると、あの時の選択を後悔したり、選択をしたということはこういうことだよなと自分を縛って限定して生きなければならない、苦しんで生きねばならない、ということ。しかし、それを悲観することはないのだ。

人々が作り上げた1は0に戻ることがある。エンタメは1になったものは不変だが、そうではない。人は、そこからやり直すことができる。「生きている限り、何度だってチャンスはある」。そのことを1話かけて証明し直したのがこの最終回と言えるだろう。

1が0に戻るということは、私たちが作ってしまった失敗を、再び行動して取り戻すことができるという話になる。それは私たちの希望なのだ。最後の志摩「また間違えるかもな。間違えても、ここからか」は、そういうことを指す。生きて、選択をし続けることが、私たちの人生を救う。一度で全ては決まらない。それは間に合う。走り続ける限り、失敗したとしても、私たちは生きることができるのだ。

これで完結。アンナチュラル→MIU404→ラストマイルが一本に記事で開通した。ぜひ何度でも読み返してください。次々回からは坂本裕二「カルテット」。

#4

ラストマイル