新作【MIU404#1.5】機捜から観る彼らの帰結/2〜5話

早稲田祭'26連投#2

ということで、去年の予告通り帰ってきました。「MIU404」(TBS系、2020)脚本・野木亜紀子。前回飛ばした、2〜5話を分析します。本筋にはあまり関係しないけれども、分岐点、つぶったー逆読み、色眼鏡など、単純に面白いモチーフが多くありますので、それらを味わっていきましょう。

2話「切なる願い」

車を乗っ取り逃走する加々見を追う、志摩と伊吹。この回はドラマでよくある犯人探し、この人が今はシロだが、積極的に疑ってクロが判明というのの逆を行く。またアンナチュラル8話、町田(クロだと思ったらシロだった)もまた逆である。皆大体、加々見がシロだと信じたいんだけども、上着がはだけそこに血があることで彼がクロだと判明する機構である。

そこを基軸に、過去を踏まえ信じてやりたい伊吹と、疑わなくてはならない志摩の意見を対立させることでダイアログを構成。視聴者を伊吹に共感させる。さらに、田辺夫妻の息子の件から、無条件に信じさせる夫婦とし、重層的にしていく。そして現実と物語の差分により、クライマックスの志摩と伊吹のセリフが生き生きとしている。

あと語りたいのは2話最後のセリフ、志摩「いらないよ汁を飛ばすな!」。これは脚本の時点で詳細に画をイメージしていないと出しようのないセリフ。野木の日頃からのクオリティの高さが垣間見れ、感嘆した。

3話「分岐点」

高校生たちが不良行動を取っているとはいえ、それは彼らの個人的な問題ではなく大人を含む社会の話である。というのをダラダラ語らずに画で端的に示しているのが、シーン37。長らく使われてなさそうな陸上部室の前に、使用禁止という張り紙があり、成川がそれを破る。彼らは走るという後に何も残さない、刹那的な行為に走ることで青春感がある。

機捜では少年法についての話になる。厳格化するべきか、桔梗の言うように社会でどれだけ救えるかに賭けて甘くするか。対立、ひいては演劇っぽさが感じられる。

クライマックスがリアル羊飼いの少年と言われたが、この展開についてはやや恣意的な面も否めない。犯人とプールでギリギリまで揉み合うが、スタンガンとプールという組み合わせが最悪を示唆していて良い。

この回はMIU404全体の根本のテーマ提起にもなっている。分岐点という言葉が示す通り、成川のBプロットは9話で回収されるまで、うごめくように続いていく。

4話「ミリオンダラー・ガール」

この回は話題の提起が綺麗である。タイガーマスクから、志摩「いいことをするには、心の余裕と金銭的余裕がいる」「この世に金がある限り、事件は起こる」と入る。本当にそうだろうか? というのを検証するのがこの回で、オチとしては事件は消えないが、その中でたまに良くなることもあるんじゃない? としたところになる。導入が端的で美しい。

中盤、青池を乗せたバスを羽田まで先着させるか、それとも途中で下ろして羽田での乱闘を回避するかという議論になる。下ろすとバレて数人は死にかねない。桔梗と我孫子が議論し、視聴者ともども悩ませる。桔梗側が折れるしかない雰囲気になり救われなさそうだが、そこで4機捜を追い付かせるということで救済する。

つぶったーの逆読みというリフは、自分たちの世代からするとやや無茶、紙に印刷したとて上が最新と気付けないか? という気もする。

一方、クライマックスで青池とその金を含んだトラックが高速のランプで分かれる。これは画としてきれい。青池自体が直接何かできたわけではない点にストーリーの限界も感じるが、だからこそ良い表情を引き出せている。

5話「夢の島

外国人労働者(今も大きな政治的焦点となるくらいのトピックだ)の描写を踏まえつつも、最終的には水森の個人的葛藤を爆発させ、バディを通じてそれを見る。そういう意味でこの回は一番(Save the catの)「なぜやったのか?」に近い。

中盤から後半にかけ、志摩と水森の心理戦が起こり、視聴者を惹きつける。志摩はあえて水森に証拠を見せ、諦めて自首させようとする。しかし水森は強盗予告を出し、この国の歪さを広めて破滅する。強盗予告を真面目に受け取る志摩に、ミスリードの役回りを与えていることになる。

強盗の前、「死の気配」にあたるシーンで、水森は自身の色眼鏡を眺める。これがまた秀悦である。まず「色眼鏡をかける」という慣用句はそれだけで無意識の偏見、目を背けることを指す。そして、メガネというものはある意味で自分の体の一部であり意識はしづらいが、一方で外部なので外そうと思えば外せる。前のシーンで斡旋業者の上司が登場し、社会的葛藤に帰着させられそうだが、あえてメガネというモチーフを登場させることで内的葛藤に戻している。

メガネを眺める水森はメガネをこのままつけ続ける(=そのまま生きる)か、自分のメガネを生きづらくても壊す(=今回のラスト)かの選択点にいる。行動がその後のより大きな行動のメタファーになっているのだ。

そして水森の最後のシーンの後、彼とマイの回想シーンに飛ぶ。なぜいきなり? と思った人もいるかもしれない。しかし、外国人労働者の一人のマイにそれでも信頼され、一方自分は目を背けてきた水森。その個人的・内的葛藤が初めて堪えられなくなり、マイの前で目を手で覆い隠したのがこのシーンなのだ。花の景色・マイと過ごすこの時間は綺麗だが、それはあくまで色眼鏡を通じてである。見えない部分に自己中で汚いものがある。それがこの回でバタフライエフェクトし、水森の人生を変えてしまう。

このように重要な意味合いを持つ色眼鏡だが、最後に伊吹に伊達メガネを「かっこいいから」と言わせ、中身を抜くことで後味が重くなりすぎないようにうまく調整している。

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