【クドカン概論#1】宮藤官九郎のドラマ脚本を紹介&プチ解説

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今回は自分の脚本ライフの原点ともなった宮藤官九郎のテレビドラマ脚本をまとめていきたいと思う。

クドカンの脚本を分類するのであれば、5年程度ずつの4つの年代に区切り、背景と共に抑えるのが近道だろう。2000年代、2005年代、2010年代、そして今2020年代。今回から計4回に渡る夏休み大型企画としてやっていこう。

宮藤官九郎は、元々「大人計画」という劇団の一員であったが、裏方から役者や脚本に進出していった。そのつながりで、TBSでテレビドラマの脚本家としてのデビューを果たすこととなる。

池袋ウエストゲートパーク

2000年、TBS系。通称IWGP。主演長瀬智也クドカンの実質的なドラマ脚本最初の作品となる(実際はこの前に一本深夜枠であったのだが、知名度も皆無なためそう言える)。

今はGrobal Ring がかかっている池袋西口公園、つまりウエストゲートパーク。そこを舞台にカラーギャング、若者の半グレ的な存在、がいた。一定の距離を置きながらもトラブルシューターとして池袋に関わる主人公マコトを中心としたストーリーであり、最終回に向けて2つのギャング集団の対立をマコトがどうまとめるのか、という方向に収束させていくこととなる。

話数にちなんで1話はいちご、と言った小道具を登場させる小ネタもあった。

IWGPの功績を理解するには、トレンディドラマという概念と比較するべきである。

トレンディドラマとは何か、を明確に定義するのは難しい。しかし大体、若者の小洒落た恋愛中心のストーリー、と言い換えられる(OLが消えてた時代の月9を思い浮かべれば良いだろう)。日本経済が成長している時は、それは若者のニーズを捉えたものだった。しかし、1991年にバブルが崩壊し、日本社会に停滞感が蔓延る中で、トレンディ作品は現実離れした「おとぎ話」として、社会の支持を失いつつあった。しかしテレビ局は引き続きトレンディな作品を作り続けたのだ。

そんな中、「IWGP」は現れる。現実の世相を反映した描写で、世の中をぶち抜くことになる。絶対的正の価値観のない世界。社会からなんとなく外れた若者たちの会話。荒っぽく細切れな映像。ハッピーエンドを迎えることなく、ただ回っていくだけの毎日。それは視聴者の心にしっかりと刺さったのだ。

また展開の斬新さも高い。最終回では、ヒカルが二重人格を持っていたというトリックがある。これまでのラストの画一さに比べて、この要素がいかに新しかったかは気にするべきである(但し、マコトが映像を流している状態で中のヒカルがマコトを殺すとしてCMを引っ張るのは、論理的に失敗しているわけだが)。

また最終回で両陣営が仲直りしていい感じになるのだが、一番最初に巻き込まれて死んだ下っぱの幼い妹が、「そんなの許さない」と人を刺してしまう。この不協和音感、綺麗に終わらない感も時代に逆らっている。

それほど高い視聴率かというとそうでもなく、放送後も中々過激な内容だったので深夜帯での再放送となるが、それでも人気は根強かった。アマプラを筆頭とするネット配信サービスによってIWGPは再注目されることとなり、現在でもそれ相応の認知度がある。IWGP自体も複数の媒体でリメイクされ続けている。現在この作品を見るときは、かれこれ25年ほど前なので、現代と異なる社会描写があるという認識で臨まなければならないとは思うが。

IWGP」は作品のエッセンスとして監督堤幸彦、原作石田依良も強い。続く「ロケット・ボーイ」がフジテレビ系で制作される予定だったが、主演の織田裕二の負傷に伴って不完全燃焼状態となり、脚本宮藤官九郎の評価は定まらないままとなる。その状態で続いたのが、「木更津キャッツアイ」である。

木更津キャッツアイ

2002年、TBS系。主演岡田准一

木更津で昼は社会人野球「木更津キャッツ」、そして飲んだ勢いで夜結成になる「木更津キャッツアイ」(怪盗もののアニメ「キャッツアイ」に掛かっている)。主人公のぶっさん(メインキャラクターはクレジット含めてあだ名呼びがメインであり、尖っている)は、余命半年宣言を受けており、仲間らも時々ぶっさんへの接し方でモヤっとすることがある。ざっくりまとめるとこんな話である。

野球に引っ掛けて、1話1話に「表」と「裏」があり、表でばら撒いた伏線を、裏で別の人物からの視点(大抵うっちーが担っている)で回収するという機構が採用されていた。インタビューを見る限り、この仕組みは初めからありきだったものではなく、素直にカットバックさせたらつまらないから最後にまとめちゃえという工夫として現れたもののようである。

テーマはモラトリアム、若者の生き方、そして死である。地元高校で甲子園に出場寸前まで行くも、監督とかの連携ミスで不完全燃焼のまま敗退。今定職につかず、地元に残って野球狂の詩という酒場で毎晩遊んでいるという話は、テーマを表す。1話ではバンビとぶっさんの微妙な気まずさを軸にストーリーを回収している。そして中盤で入るオジーの死と、蘇る死の認識。この辺は裏表の派手さに目を取られていると気づきにくい点だが、かなり丁寧に描かれている。死が現れれば今の生活の不確かさが現れ、逆に今刹那的な生き方が見えるほど死の近づきが意識される、そんな機構になっている。

途中で哀川翔氣志團が本人役で登場し(かと思えば虚構の幼稚園の話を始める)ている点、あるいは1話完結で大きな物語を感じにくい点は、やはり時代の背景が現れていると感じる。個人的には3話のアニに「コンデンスミルク〜」のおじさんが非常に好きなのだが。

「木更津」は、こちらもやはり視聴率的にそこまで高いわけでもなかったが、DVD販売等での根強い人気があり、結果「日本シリーズ」「ワールドシリーズ」2本の映画続編が作られた。2時間で9回+αの伏線回収を綺麗な感覚で入れ込んだ、でも騒いでるだけ感もある「日本シリーズ」と、死というテーマに直球で向き合ったけどその分伏線がギュギュってなってしまった「ワールドシリーズ」のどちらがしっくりくるかで、あなたが「木更津」をどう捉えているのかが現れると思う。映画は本題ではなく書き出すとキリがないんで触れませんが。

ちなみにIWGPスペシャルドラマ化されており、そこに小ネタ的扱いで「木更津キャッツアイ」のメンバーも出てきている。

最近、TVerでようやく初めて「木更津」は再公開されており、その関連で知った人も多いのではないだろうか。

初期クドカンをどう捉えるか

2005年までの作品を見てきた。こうしたクドカンの脚本は、時代・評論的には「大きな物語の喪失」「データベース的な楽しみ」といったキーワードとリンクしてくるのかもしれないが、細かい話は避ける。あるいはインターネットの登場でテレビが映像的クオリティとして映画とYouTubeに挟まれる状況、あるいは録画機器やDVDの普及に伴って生まれたものとの解釈もできる。クドカンはこうして社会の描写がメインで表舞台に出てきたが、この時期はまだドラマ脚本界では異色の存在として扱われていたし、感覚に頼るところが大きく正直脚本術を用いて話せる内容も少ないのが実情である。

また、これらの作品では女性に対する描写の配慮が足りていないという言説もあるが、どこまでそれは言えるだろうか。逆に現代の価値観って本当に女性の存在軽んじてないと言い張れるんですかね、とかもある。演劇の話にはなるが、一般常識を持ち込むとうまく読み取れきれない作品は存在する。

つまり脚本のメディア的側面に着目し、20年前のもうだいぶ昔の社会の鏡として脚本を読み取る必要がある。これは覚えておきたい。高校の国語の授業で夏目漱石森鴎外を読む感覚。

続く。

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